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立花宗茂:歴史街道

歴史街道 2009年 09月号 [雑誌]歴史街道 2009年 09月号 [雑誌]
(2009/08/06)
不明

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↑これを買った。
わーい!宗茂だ~~

この人のことを悪く言っている武将って、あまりいないのではなかろうか。
むしろ、ファンの方が多いかも 。
というくらい、宗茂にはさわやかなエピソードが多い。

実父・高橋紹運、岳父・戸次道雪は、大友家家臣だから、島津家は敵だった。
紹運は島津勢に討たれているし、主家・大友も耳川の戦いで大敗している。
しかし、宗茂と島津義弘は仲が良かったのかも(?)
年の差32だけどね!
武人として、相通じるところがあったのかもしれない。

戦国時代(に限らず)、偉大すぎる父親を持った不幸な息子は多い。
父は偉大な武将だけど、息子は凡庸だったり、
息子の能力も高いのだけど、父が偉大すぎてまっとうに評価されなかったり、
父が偉大すぎて、息子がかすんで見えたり…
あー いろんな父子が思い浮かぶ。実名で。

宗茂は偉大な父をふたりも持っているのに、父に負けず劣らずの武人だ。
2009-08-28(Fri)
 

大友宗麟:読書中

大友宗麟/外山幹夫/吉川弘文館

宗麟の人物メモ

  • 父から廃嫡されそうになったが、「二階崩の変」後、父が横死し、二十一歳で家督を相続。

  • 大友氏の本拠地は、府内→臼杵→府内→臼杵と変遷している。しかも、家臣は、府内や知行地に残したまま、大友氏だけ移転。140

  • 自由奔放だったらしい。花押は十種、朱印もたくさん使用。居城移転も気まぐれから?141

  • 宗麟は女好きで、家臣の妻を横取りしたという伝説(か実話か定かでない)の持ち主。

  • 宗教問題で一族がもめにもめ、宗麟は第二夫人と離婚している。

  • キリシタン大名として知られる宗麟だが、受洗したのは意外に遅く、四十九歳のとき。洗礼名はドン・フランシスコ。それまでには、禅宗の高僧を領内に招いたり、入道したりしている。

  • 受洗が遅くなった理由。1まつりごとに忙しく、隠居するまでヒマがなかった。2仏教も勉強したが、自分にはあってないなーと気づくまで、時間がかかった。以上2点は、宗麟自身の言。著者は、3家臣の反発をおそれた。4姦淫を禁じる教えを守れそうになかった。という理由もあるのでは……と言っている。190

  • 蒐集癖があり、いろいろ集めていた。博多の豪商島井宗室らと懇意になり、欲しい物があればねだっていた。214

  • 貿易には関心が高かった。ま、当然ちゃ当然。

  • 嫡男義統に家督を譲った後も、政治を補佐していた。宗麟は、三男の方がかわいかったようだが、自分の家督相続にともない、苦い思いをしているので、ちゃんと義統に後を継がせている。だが、義統は、宗麟ほどの器でなかった。偉大な父と、凡庸な息子。よくある図。

  • 権威を尊重する。肩書きには弱い?






  • 宗麟の奔放な性格が伺えますねー
    2009-08-25(Tue)
     

    立花宗茂と立花道雪:読了2

    立花宗茂と立花道雪/滝口康彦/学陽書房

    1 立花宗茂
    まずは、宗茂の略歴から―
    立花宗茂は、幼名千熊丸。統虎、宗虎、親成、政高、俊正、宗茂と改め、晩年には立斎と名乗る。
    永禄10年(1567年)生まれ(異説あり)、寛永19年(1642年)没。
    宗茂の実父は大友宗麟麾下の武将、高橋紹運。義父は戸次道雪。紹運は、豊州三老のひとり吉弘鑑理の次子であるし、戸次道雪(立花道雪とも呼ばれるが、道雪自身は立花姓を名乗ってはない)も豊州三老のひとりだから、宗茂は大友家臣団のサラブレットというか、お坊ちゃまである。
    しかも、幼少のころから道雪に見こまれるほど、器量の優れた人物だった。
    1589年には、秀吉直臣として、筑後三郡をあたえられる。二十一歳にして柳川城主となる。
    1600年の関ヶ原の戦いでは西軍についた。敗戦後、大坂城籠城を説いたが、受け入れられず。
    その後、改易されて奥州南郷に領地を与えられるが、1626年に柳川に返り咲いている。

    本書は、宗茂が戸次道雪の養嗣子となった1581年、宗茂15歳から、柳川城主となった1587年21歳までの物語である。
    この間に、道雪・紹運・統虎(宗茂)は、秋月勢と戦い、龍造寺家晴と戦い、島津勢と戦っている。その他、小競り合いは数知れず。(統虎は城を守るだけで、直接参戦していない戦もあるが)
    最大の敵は島津。

    物語が終わるまでのわずか6年間に、ふたりの父、戸次道雪と高橋紹運が戦のただなかで死んでいる。

    2 高橋紹運
    本書で最も印象深かったのは、主人公の統虎ではなく、実父・高橋紹運。
    寡兵で岩屋城にたてこもり、全九州制圧をたくらむ島津の猛攻に半月間耐え抜く。
    兵力は、高橋勢700に対し、島津30000。差、ありすぎ!
    結果として、岩屋城は陥落。城内の兵は、紹運はじめ全て自刃。(享年39歳)
    紹運の敗戦なのだが、島津の野望を打ちくだき、甚大な被害を与えることに成功した。
    そして、養子に出した統虎の立花城を守ることができた。

    統虎の活躍が少なかっただけに、「岩屋城の戦い」は熱かった!
    全員討ち死にとわかっている戦にかける紹運と、その配下。
    岩屋城から逃げ出す兵はほとんどいなかったという。(滝口氏は、疑問を持ちながら書いている)
    統虎は、紹運の真意に気づき、父を救いたいと願っていながら、動くことも、父を立花城に招き、共戦することもできなかった。

    3 戸次道雪
    豊州三老のひとり。
    永正10年生まれ、天正13年没。
    武勇(どこまでが実話で、どこまでが伝説なのか)を誇る名将。雷を愛刀千鳥できりさき、その時の傷が元で半身不随になったという。
    体が不自由だったのは本当らしく、輿に乗って采配をふるったといわれる。
    酒と女色に溺れる主君・大友宗麟のまねをして、宗麟をおびき寄せ、諫言した。
    男子に恵まれず、娘・ギン千代(キンは門構えに言)を城主にして、養嗣子・統虎をむかえた。

    道雪のエピソードで印象に残ったのは、対龍造寺戦で、敵前逃亡した家臣に対する処断の厳しさ。
    実際は逃亡ではなくて、正月になっても、戦が膠着して陣を解かれなかったので、勝手に正月休みをとっていたのだが。
    道雪は懲罰隊(!?)を派遣し、里へ帰った者、受け入れた家族を殺させる。

    滝口氏は、三杉右京と甲斐源吾という、ふたりの若者を書いている。
    甲斐源吾は、里へ帰った無二の親友、三杉右京を討つよう命じられる。
    源吾は、右京が逃げることを願って、遅れて里へ入る。
    しかし、右京は切腹の覚悟を決めて、源吾を待っていた。源吾に、妻の真砂をめとってくれ、と頼んで死ぬ。真砂は、源吾の妻となることを望まず、「自分の首を道雪に届けてほしい」と源吾に頼む。そして、源吾に首を打たれて死ぬ。
    源吾は、約束通り、真砂の首を道雪に届ける。道雪は、夫を殺された女の恨みと向き合うことになる。
    鉄の軍律、道雪の怒りの影に、若者とその妻の哀話があったことを、滝口氏は描いている。

    4 女たち
    時代小説を読むと、女性の扱いのあまりのひどさに萎えることがある。男尊女卑の時代だったこともあろうが、作者の考えが行間からにじみ出でいる気がしてならなかった。
    だが、滝口氏は、女性を温かい筆致で書いている。

    戦乱の時代ゆえに、薄幸な女性も多かった。
    道雪の側室のお色の方、お色の方に仕える小萩、紹運の妻・雲井。
    作者は女たちの痛みやつらさに寄りそっている。

    雲井と紹運のエピソードは少ないが、心温まる。
    嫁ぐ前の雲井は美しかったが、14歳で疱瘡をわずらい、あばたが残ってしまった。雲井の兄が、紹運に破談を申し入れたところ、紹運は「雲井の顔が欲しいのではない。心ばえの美しさが欲しいのだ」と言って、結婚した。

    そんな女たちのなかで、勝ち気な美少女ギン千代がかわいい。
    統虎に戦いを挑み、簡単に打ち負かされてくやしがるギン千代(かわいい)
    統虎にツンツンするギン千代(かわいい)
    ギン千代の一生も、幸福とは言えないのだけど。
    2009-05-24(Sun)
     

    立花宗茂と立花道雪:読了

    立花宗茂と立花道雪/滝口康彦/学陽書房

    今日、一気読みしてしまった。
    小説、読みやすーい。現代文、読みやすーい。字が大きいの、ルビつき、(以下同文)

    感想は後で書き直すかもしれないが、
    とりあえず、これだけは言っておこう!
    立花道雪、高橋紹運、立花宗茂、潔し! かっこいい!

     龍造寺・鍋島、島津も好きだけどね!
    2009-05-18(Mon)
     

    史伝 鍋島直茂 「葉隠」の名将:読了

    史伝 鍋島直茂 「葉隠」の名将/学研M文庫/中西豪

    またまた、マニアックな本を読んだ…(失敬な!)
    新品はなかったので、古本購入。

    古今、鍋島直茂、勝茂父子は、あまり評判がよくないようである。同時代の大友方の武将、戸次道雪、高橋紹運、立花宗茂の親子は人気者なのに。(紹運は宗茂の実父、道雪は義理の父)

    江戸時代初期、肥前国の政権は、龍造寺氏から鍋島氏に移ったのだが、佐賀鍋島藩の基盤を作った直茂、勝茂父子は、簒奪者と呼ばれることがある。それに、関ヶ原の戦いでは、子・勝茂は西軍につき、父・直茂が莫大な兵糧米を買い占め、家康に寄贈した。東軍にも西軍にもいい顔をしたと思われても仕方がない。

    「葉隠」聞書第十145で「龍造寺が鍋島飛騨、これは勇気・智恵はあれども大気なし」と評されたように、直茂は、時代の趨勢を見極める洞察力を持つ知謀家だ(悪く言えば計算高いとも)。一方で、戦となると、「『武士道は死に狂いなり。一人の殺害を数十人してつかぬるもの』と、直茂公仰せられ候」(「葉隠」聞書第一114)という武人でもあった。
    永禄~元亀年間、龍造寺氏が大友氏と対立していた時は毛利氏と同盟していたのに、天正時代、毛利攻めをしている秀吉に書状を送っている。その後、豊臣政権下で、忠臣ぶりを遺憾なく発揮している。
    しかし、秀吉が死ぬと、徳川政権に忠実に仕えている。
    「智恵はあれども大気なし」と言われる所以がここに。
    子の勝茂も、島原の乱鎮圧には張り切っているし。

    当時、「国替えの際に、略奪や破壊が行われるのが常」(藤木久志/「飢餓と戦争の戦国を行く」)だったという。大友氏が衰微した後の豊後国の荒れ様はすさまじかったらしい。
    となると、「簒奪者」と呼ばれようとも、国と家を守りぬくことが、直茂・勝茂父子の第一義だったことだろう。

    本書には、鍋島直茂の龍造寺時代から、藩祖となった佐賀鍋島藩成立までが書かれている。戦乱の時代を生きた武将の常とはいえ、直茂には後ろ暗い歴史も多い。しかし、著者は、直茂や同時代人を温かい筆致で描く。肥前国政権委譲の件も、中央の権力と家臣からの要請もあったのだと見る。実際、直茂は主家筋には随分気を遣っている。

    実際のところ、直茂・勝茂の腹の内はどうだったのだろう??


    以下、どうでもいい話なので、開かなくていいです。

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    2009-05-16(Sat)
     
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