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島津義弘:読了

島津義弘/江宮隆之/学研M文庫
織豊政権~江戸初期の九州は、島津家をぬきにして語ることはできない。
というのは、九州の多くの国人や大名たちの敵(または仮想敵国(家?))は、島津だっただろうから。
世の武将たちが、鉄の当世具足を身につけていたときに、島津は大鎧だった。そのくせ、鉄砲は早くから使用している。尚武のお家柄である。

龍造寺隆信、大友宗麟関連の本を読んだので、お次は島津だ!
というわけで、本書「島津義弘」を読了。義弘の主な戦を章立てした小説である。

義弘は島津四兄弟の次男だ。
兄の義久が内政担当だったのに対し、弟の義弘はいくさ担当だった。義弘は義久を助けて戦い、数々の武功をあげた。

以下、島津義弘の人物メモ(小説だから、史実とは限らない)

まずは、義弘の武人ぶりから。

・「山くぐり衆」という間諜をつかい、情報収集につとめた。
・「釣り野伏せ」「捨てがまり」という作戦を考案した。「釣り野伏せ」にひっかかる敵は、けっこう多かった。
・木崎原の戦いでは、日向の伊東勢3000を300の寡兵で破った。
・朝鮮半島からの退却戦ではしんがりを務め、「鬼石曼子」と敵軍から恐れられる戦いぶりだった。
・関ヶ原の「島津の退きぐち」は、中央突破の退却戦として有名だ。敵中に孤立した手勢はわずか300。それで、敵の正面突破をやらかし、成功した。

このように、義弘は歴戦の武人で、島津勢はとても強かったのだが、情けないのか、あわれなのかよくわからないエピソードもある。

・朝鮮半島に渡ろうとする時も、関ヶ原の戦いに参戦しようとするときも、なかなか兵が集まらなかった。関ヶ原では、大大名なのに、手勢は1000だった。(立花宗茂は1500でいいのに、4000人を率いていた…)兄や実子に援軍要請したが断られた。
・関ヶ原では東軍につくつもりだった。家康から伏見城の警護をまかされたが、入城できず、やむなく西軍についた。
・関ヶ原の退却戦で、義弘は輿に乗っていた。輿の担い手が空腹のたまり、馬肉を食った。家臣が義弘にも肉を差し出したが、他の家臣が「それは我々の食糧であって殿さんのものではない。くたびれているのは我らであって、殿さんは気苦労だけではないか」(p334)と言って、くれなかった。

義弘のもうひとつの顔―

・戦の後は、敵味方関係なく戦死者のための供養塔を建てた。
・漢方にも通じ、部下の将兵に「負傷した者は儂のところに来い。必ず治してやるぞ」(p273)と言った。

・和歌や連歌の素養もあった。
・朝鮮半島から手紙を送る愛妻家でもあった。

・そして、同時代人の敵将・龍造寺隆信↓
takanobu

 戸次(立花)道雪が↓こんないかつい顔だったのに対し
dosetu

島津義弘は↓
yoshihiro



なかなかのイケメンだった。
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2009-11-02(Mon)
 
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