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龍造寺四天王

五人いるというのがデフォの龍造寺四天王。
成松信勝、江里口信常、百武賢兼、円城寺信胤、木下昌直の五人だ。
葉隠にも四天王のことが書かれていて、この場合は百武、木下、成松、江里口の四人。

あれ? 四人しかいないのに四天王だと!


聞書第六30
隆信公の御時、四天王と申したる武勇の士、百武志摩守、木下四郎兵衛、成松遠江守、江里口藤七兵衛なり。江里口の末は神代家中にこれある由。
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2009-11-16(Mon)
 

手首が痛くない?マウス

エルゴノミクスデザインマウスを購入した。
Microsoft Natural Wireless Laser Mouse 6000
右のやつ
(左のは今まで使ってたやつ。まだ使えるので買い換えるのはもったいないが、手首痛と肩こりと首痛が軽減されるならば、数千円出すのもやむなしと思った)
mouse3
従来のようにマウスの上に手のひらをおくのではなく、手のひらを横に向けてマウスをつかむ。


mouse4
・レーザー、ワイヤレス
・チルトホイール
・5ボタン
・1000dpi


果たして使い心地がいいのかどうかはまだわからない。



しかし、
パソコンショップの後で寄った100均で
財布の金が足りなくなりそうだった
のにはまいった。
(あれ? 10個しか買ってないのに)

2009-11-14(Sat)
 

氏神になった隆信

またもや戦国九州の話。

「五州二島の太守」にまでのぼりつめた龍造寺隆信は、沖田畷の戦いで島津家久に敗れ、戦死した。
合戦で首をとられた大名は、今川義元と龍造寺隆信だけだともいう。

沖田畷で隆信を討ちとったのは、島津家の家臣、川上忠堅だった。

隆信所用の刀が川上家に伝わっているそうだ。

それが、今、佐賀県立美術館に展示されている。
川上家では、「現在に至るまで、隆信を供養し、氏神としておまつりしている。」(リンク先から引用)
この刀はご神体だそうだ。


島津義弘は、戦後敵味方の区別なく、戦死者の供養をしたそうだが、これは島津家の家風だったのかなー?

島津の人たちって、やたら戦に強くて、戦国九州を震撼させたのに、信心と人情にあつかったのか。
(ま、時代の価値観もあっただろうけど…)
2009-11-07(Sat)
 

葉隠:鍋島光茂

さむき夜にはだかになりて寝たならば明くる朝はこごえ死ぬべし 聞書第五2(p31)





まるで中学生が詠んだような歌である。(失礼






詠んだのは佐嘉鍋島藩二代藩主・鍋島光茂公。
光茂14歳のころの歌だから、中学生の歌というのもあながち間違いではない。
ふだん厚着だった光茂が、危急の時には厚着していては対処できなかろうと、ある極寒の夜薄綿と小袖ひとつで縁側に寝て風邪もひかなかった(「初期の鍋島佐賀藩」p156)ということがあった。得意になって歌を詠んだ大名家のおぼっちゃんが目に浮かぶようだ。

光茂の祖父・勝茂、曾祖父・直茂が数々の戦を経験した武人であったのに対し、如睦の世に生まれた光茂は和歌好きだった。14のころの光茂は、次代藩主としての文武の鍛錬を怠り和歌にうつつをぬかしていたので、勝茂はカチンときたらしい。
このころの光茂には奇行が多かったので、佐嘉藩主の後継問題でもめたが、無事藩主となった。が、江戸育ちの光茂が国に帰ると、武篇一辺倒の家臣に反発された。

と、こんな光茂だが、彼の文治政治は高く評価されている。

光茂は、幕府に先駆けて、追腹を禁じた。
だから、「葉隠」の語り手山本定朝は、追腹できずに出家した。
2009-11-03(Tue)
 

島津義弘:読了

島津義弘/江宮隆之/学研M文庫
織豊政権~江戸初期の九州は、島津家をぬきにして語ることはできない。
というのは、九州の多くの国人や大名たちの敵(または仮想敵国(家?))は、島津だっただろうから。
世の武将たちが、鉄の当世具足を身につけていたときに、島津は大鎧だった。そのくせ、鉄砲は早くから使用している。尚武のお家柄である。

龍造寺隆信、大友宗麟関連の本を読んだので、お次は島津だ!
というわけで、本書「島津義弘」を読了。義弘の主な戦を章立てした小説である。

義弘は島津四兄弟の次男だ。
兄の義久が内政担当だったのに対し、弟の義弘はいくさ担当だった。義弘は義久を助けて戦い、数々の武功をあげた。

以下、島津義弘の人物メモ(小説だから、史実とは限らない)

まずは、義弘の武人ぶりから。

・「山くぐり衆」という間諜をつかい、情報収集につとめた。
・「釣り野伏せ」「捨てがまり」という作戦を考案した。「釣り野伏せ」にひっかかる敵は、けっこう多かった。
・木崎原の戦いでは、日向の伊東勢3000を300の寡兵で破った。
・朝鮮半島からの退却戦ではしんがりを務め、「鬼石曼子」と敵軍から恐れられる戦いぶりだった。
・関ヶ原の「島津の退きぐち」は、中央突破の退却戦として有名だ。敵中に孤立した手勢はわずか300。それで、敵の正面突破をやらかし、成功した。

このように、義弘は歴戦の武人で、島津勢はとても強かったのだが、情けないのか、あわれなのかよくわからないエピソードもある。

・朝鮮半島に渡ろうとする時も、関ヶ原の戦いに参戦しようとするときも、なかなか兵が集まらなかった。関ヶ原では、大大名なのに、手勢は1000だった。(立花宗茂は1500でいいのに、4000人を率いていた…)兄や実子に援軍要請したが断られた。
・関ヶ原では東軍につくつもりだった。家康から伏見城の警護をまかされたが、入城できず、やむなく西軍についた。
・関ヶ原の退却戦で、義弘は輿に乗っていた。輿の担い手が空腹のたまり、馬肉を食った。家臣が義弘にも肉を差し出したが、他の家臣が「それは我々の食糧であって殿さんのものではない。くたびれているのは我らであって、殿さんは気苦労だけではないか」(p334)と言って、くれなかった。

義弘のもうひとつの顔―

・戦の後は、敵味方関係なく戦死者のための供養塔を建てた。
・漢方にも通じ、部下の将兵に「負傷した者は儂のところに来い。必ず治してやるぞ」(p273)と言った。

・和歌や連歌の素養もあった。
・朝鮮半島から手紙を送る愛妻家でもあった。

・そして、同時代人の敵将・龍造寺隆信↓
takanobu

 戸次(立花)道雪が↓こんないかつい顔だったのに対し
dosetu

島津義弘は↓
yoshihiro



なかなかのイケメンだった。
2009-11-02(Mon)
 

博多の豪商:読了

博多の豪商/武野要子/ぱぴるす文庫
博多とは、九州の政令指定都市・福岡市の博多区のことだけでなく、都市部を指して言うこともある。
MORIは九州人なので、博多にはよく行く。新幹線に乗るのは博多駅だし、福岡空港に行くにも博多を通る。
博多に買い物にいくこともある。
交通の要衝だし、ラーメンはうまいし、魅力的な町だ。

中世の博多も魅力的だったに違いない。
何度も戦禍をこうむったが、急速に復興したところに、博多のしたたかさが感じられる。
鎖国前の博多は、貿易が盛んな国際都市だった。(中世のことだから、暗い歴史もあるのだが)
本書は、博多のよさを最大に生かし、時代の波に乗った豪商が取り上げられている。
彼らは、博多の商人としての横のつながりを密接に保ちながら、博多の―ときには中央の―権力者と結びついて、手腕を発揮したり、逆に権力に抗ったりする。
なかでも興味深かったのは、大友宗麟とつながりが深かった島井宗室。
宗室は、宗麟とのつきあいが長かったのに、宗室自身がキリシタンにはなっていないばかりか、「十七条の遺言」で、養子に「キリシタンになってはならない」と強く戒めている。
創業者の苦労が偲ばれる「十七条の遺言」は、子にだけでなく共同体としての博多商人にあてたものだと著者はいう。
宗室は秀吉の朝鮮侵略には反対している。
国際人の宗室にしてみれば、反対するのは当然のことだろう。
2009-11-01(Sun)
 
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