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史伝 鍋島直茂 「葉隠」の名将:読了

史伝 鍋島直茂 「葉隠」の名将/学研M文庫/中西豪

またまた、マニアックな本を読んだ…(失敬な!)
新品はなかったので、古本購入。

古今、鍋島直茂、勝茂父子は、あまり評判がよくないようである。同時代の大友方の武将、戸次道雪、高橋紹運、立花宗茂の親子は人気者なのに。(紹運は宗茂の実父、道雪は義理の父)

江戸時代初期、肥前国の政権は、龍造寺氏から鍋島氏に移ったのだが、佐賀鍋島藩の基盤を作った直茂、勝茂父子は、簒奪者と呼ばれることがある。それに、関ヶ原の戦いでは、子・勝茂は西軍につき、父・直茂が莫大な兵糧米を買い占め、家康に寄贈した。東軍にも西軍にもいい顔をしたと思われても仕方がない。

「葉隠」聞書第十145で「龍造寺が鍋島飛騨、これは勇気・智恵はあれども大気なし」と評されたように、直茂は、時代の趨勢を見極める洞察力を持つ知謀家だ(悪く言えば計算高いとも)。一方で、戦となると、「『武士道は死に狂いなり。一人の殺害を数十人してつかぬるもの』と、直茂公仰せられ候」(「葉隠」聞書第一114)という武人でもあった。
永禄~元亀年間、龍造寺氏が大友氏と対立していた時は毛利氏と同盟していたのに、天正時代、毛利攻めをしている秀吉に書状を送っている。その後、豊臣政権下で、忠臣ぶりを遺憾なく発揮している。
しかし、秀吉が死ぬと、徳川政権に忠実に仕えている。
「智恵はあれども大気なし」と言われる所以がここに。
子の勝茂も、島原の乱鎮圧には張り切っているし。

当時、「国替えの際に、略奪や破壊が行われるのが常」(藤木久志/「飢餓と戦争の戦国を行く」)だったという。大友氏が衰微した後の豊後国の荒れ様はすさまじかったらしい。
となると、「簒奪者」と呼ばれようとも、国と家を守りぬくことが、直茂・勝茂父子の第一義だったことだろう。

本書には、鍋島直茂の龍造寺時代から、藩祖となった佐賀鍋島藩成立までが書かれている。戦乱の時代を生きた武将の常とはいえ、直茂には後ろ暗い歴史も多い。しかし、著者は、直茂や同時代人を温かい筆致で描く。肥前国政権委譲の件も、中央の権力と家臣からの要請もあったのだと見る。実際、直茂は主家筋には随分気を遣っている。

実際のところ、直茂・勝茂の腹の内はどうだったのだろう??


以下、どうでもいい話なので、開かなくていいです。

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2009-05-16(Sat)
 
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