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葉隠:直江、小早川、鍋島

聞書第十145を引用。

太閤秀吉公へ御伽の衆尋ね申され候は、「当時天下を取り申す器量の大名御座候や」と申され候えば、太閤御答に、「天下を取ることは大気・勇気・智恵なければならず。この三つを兼ねたる大名一人もなし。又小者には二つ宛兼ねたる者三人あり。上杉が直江山城、これは大気・勇気はあれども智恵かけ合はず。毛利が小早川隆景、これは大気・智恵はあれども勇気懸け合はず。龍造寺が鍋島飛騨、これは勇気・智恵はあれども大気なし。大名には、これほどの者もなし」と御申し候由。

「葉隠」のなかでも、結構有名な一段。
秀吉がいうには、
「天下を取るには、大気・勇気・智恵が必要。この三つをそなえた人物は、大名のなかにはひとりもいない。その家臣には、直江兼続、小早川隆景、鍋島直茂の三人がいる。しかし、直江には大気・勇気はあるが、智恵がない。小早川には大気・智恵はあるが、勇気がない。鍋島には勇気・智恵はあるが大気はない」
と。

このなかでもっとも有能な部下は、鍋島じゃないのか?
直江には智恵が欠けているそうだ…
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2009-02-23(Mon)
 

葉隠:斎藤佐渡守

「葉隠」聞書第三の五二に出てきた斎藤佐渡守。
「武道勝れ度々の手柄仕り、直茂公別けて懇ろに召し使はれ候へども、世間不調法にて如睦の御奉公相成らず」と言われた男だ。
いくさで武功を立てたが、戦乱の世が去り、天下静謐の時代になると、藩役人に就けなかったらしい。
飢えたから切腹しようとしたが、息子に「卑劣なる業をしては活きては詮もなし。中々に大なる悪事なりとして死ぬは本望なり」と言って、息子と共に年貢米泥棒をした。結果、死罪になったが、直茂のとりなしで免れた。

この男を「今山の戦い」で発見!

今山の戦いとは―

大友宗麟は、肥前の龍造寺隆信を度々攻めている。宗麟自身は、高良山から動かなかったが、豊州三老は佐賀に来襲した。豊州三老というのは、戸次鑑連(立花道雪)、吉弘鑑理、臼杵鑑速のこと。
元亀元年(1570年)の戦いでは、豊州勢と、大友に味方した筑前、筑後、肥前の国人の軍は、八万だったとも言われている。その大軍が龍造寺の城を囲んだ。一方、龍造寺勢は五千。
龍造寺軍は、「桶狭間の戦い」の如き奇襲戦「今山の戦い」で、宗麟の甥(弟とも言われる)の親貞を討ち取る。起死回生の勝利だった。
もっとも「今山の戦い」は局地戦に過ぎず、龍造寺勢が対大友戦に勝利したとはいえない。(名を捨て実を取るという結果にはなったが)

斎藤杢左衛門は、「今山の戦い」で、敵将吉弘大蔵を討つ。
戦功をあげたので、「佐渡守」という受領名と所領をもらっている。

では、「葉隠」に書かれた「度々の手柄」のひとつは、かなりでっかい手柄だったわけだ。

隆慶一郎氏の「死ぬことと見つけたり」の主人公斎藤杢之助は、斎藤佐渡守の孫という設定。(隆氏は、佐渡守を杢右衛門としている。本当はどっちなのか、調べていない。)

蛇足だが、斎藤杢之助という名について。
斎藤佐渡守の息子は用之助。杢之助という名は、祖父の「杢」の字と、父の「之助」をくっつたけたものになっている。
また、「葉隠」には、武門の誉れ高い「中野家」のメンバーが度々出てくる。山本定朝自身も中野家の一員だし。そのなかに、中野杢之助という人物もいる。

「死ぬことと見つけたり」には中野求馬という人物が登場する。名門中野家に、家老相良求馬の名をあわせたものか。
2009-02-11(Wed)
 
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