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雑兵足軽たちの戦い:読了

雑兵足軽たちの戦い/東郷隆/講談社文庫

○ 雑兵足軽たちの発生と歴史、服装や装備、戦い方などの解説本。イラストが豊富で、わかりやすい。

○ 江戸時代の指南書「雑兵物語」の解説もついている。

○ 巻末に「明治になると、徴兵制によってごく普通の人々までが足軽と同じ扱いを受けるようになった」とある。つまり、六十五年前まで、普通の人々を足軽として徴集したというわけだ。
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2010-08-19(Thu)
 

海王 上:読了

海王 上 宮本昌孝 徳間書店

・歴史上の人物と架空の主人公がからむ物語はわりと好きなので、本作も楽しめた。今、最も好きな金庸の作品を彷彿とさせる。

・主人公ハイワン(海王)の養母は和冦の頭目、王直の娘、実の父は、足利義輝という一種の貴種流離譚。

・幼さの残る十三歳のハイワンが武人として成長していくさまはおもしろかった。上巻だからか、ハイワンが何かをなしたというわけではない。歴史上の人物と知り合い、大坂の海戦とか、本能寺の変などの事件に巻きこまれていく。

・みんなハイワンのことが大好きらしい。もともとハイワン側のメイファ、フーチアオ、友だちのあご十郎はもちろん、師匠の上杉兵庫と供の八雲、織田信長、堀秀政ばかりか、敵であったはずのヂャオファロン、熊鷹までハイワンの虜(?)になっている。ハイワンのことをよく思っていないのは、森乱くらいかも。もちろん女性にももてているらしいのだが、なにぶん女性との関わりが薄すぎる。

・ハイワンの初恋(?)の相手である明智光秀の娘、玉子、ハイワンと関係を持った女性がふたり登場するが、あんまり(というか、MORIにとっては全く)魅力的ではない。ヒロイン不在っぽい。
2010-02-11(Thu)
 

島津義弘:読了

島津義弘/江宮隆之/学研M文庫
織豊政権~江戸初期の九州は、島津家をぬきにして語ることはできない。
というのは、九州の多くの国人や大名たちの敵(または仮想敵国(家?))は、島津だっただろうから。
世の武将たちが、鉄の当世具足を身につけていたときに、島津は大鎧だった。そのくせ、鉄砲は早くから使用している。尚武のお家柄である。

龍造寺隆信、大友宗麟関連の本を読んだので、お次は島津だ!
というわけで、本書「島津義弘」を読了。義弘の主な戦を章立てした小説である。

義弘は島津四兄弟の次男だ。
兄の義久が内政担当だったのに対し、弟の義弘はいくさ担当だった。義弘は義久を助けて戦い、数々の武功をあげた。

以下、島津義弘の人物メモ(小説だから、史実とは限らない)

まずは、義弘の武人ぶりから。

・「山くぐり衆」という間諜をつかい、情報収集につとめた。
・「釣り野伏せ」「捨てがまり」という作戦を考案した。「釣り野伏せ」にひっかかる敵は、けっこう多かった。
・木崎原の戦いでは、日向の伊東勢3000を300の寡兵で破った。
・朝鮮半島からの退却戦ではしんがりを務め、「鬼石曼子」と敵軍から恐れられる戦いぶりだった。
・関ヶ原の「島津の退きぐち」は、中央突破の退却戦として有名だ。敵中に孤立した手勢はわずか300。それで、敵の正面突破をやらかし、成功した。

このように、義弘は歴戦の武人で、島津勢はとても強かったのだが、情けないのか、あわれなのかよくわからないエピソードもある。

・朝鮮半島に渡ろうとする時も、関ヶ原の戦いに参戦しようとするときも、なかなか兵が集まらなかった。関ヶ原では、大大名なのに、手勢は1000だった。(立花宗茂は1500でいいのに、4000人を率いていた…)兄や実子に援軍要請したが断られた。
・関ヶ原では東軍につくつもりだった。家康から伏見城の警護をまかされたが、入城できず、やむなく西軍についた。
・関ヶ原の退却戦で、義弘は輿に乗っていた。輿の担い手が空腹のたまり、馬肉を食った。家臣が義弘にも肉を差し出したが、他の家臣が「それは我々の食糧であって殿さんのものではない。くたびれているのは我らであって、殿さんは気苦労だけではないか」(p334)と言って、くれなかった。

義弘のもうひとつの顔―

・戦の後は、敵味方関係なく戦死者のための供養塔を建てた。
・漢方にも通じ、部下の将兵に「負傷した者は儂のところに来い。必ず治してやるぞ」(p273)と言った。

・和歌や連歌の素養もあった。
・朝鮮半島から手紙を送る愛妻家でもあった。

・そして、同時代人の敵将・龍造寺隆信↓
takanobu

 戸次(立花)道雪が↓こんないかつい顔だったのに対し
dosetu

島津義弘は↓
yoshihiro



なかなかのイケメンだった。
2009-11-02(Mon)
 

大友宗麟:読了

大友宗麟/外山幹夫/吉川弘文館
ろくでもない逸話を残し、多くの歴史好きにあまりよく言われていない戦国武将、大友宗麟。
この本の著者も、宗麟のこと、あきれながら書いた? と思われるフシがある。
宗麟の政治手腕(特に文化と外交面)は優れていただろうし、キリシタン大名だったことを差し引いても、宣教師にベタボメされるだけの器を持っていたのかもしれない。
それでも、人をあきれさせるモノを宗麟は持っている。

本書のなかで、なるほど! と思ったのが、島津の猛攻に耐えかねて、秀吉に救援を頼んだ一件について。
ちょっと長くなるが引用(p270)
「豊後の危機は秀吉のこうした救援の保証によって回避されたかのようにみえた。しかし長期的な展望に立つと、これは大友氏にとって決して得策ではなかった。島津氏による危機に際し、自力を振り絞ってこれと対決する姿勢を欠き、安易に秀吉の至上権力に依頼しようとするところに宗麟の限界がある。
そして、ついにのち彼の没後、朝鮮侵略戦争の際における僅かな手落ちを口実に、宗麟に好意の手を差し延べたその同じ秀吉によって、義統が徐封処分に遭うその悲劇は、皮肉にもすでにこの時始まっていたといわねばならない。」

そういえば、宗麟死去の翌月、秀吉は宣教師追放令を出しているし。
キリシタンである宗麟が生きていたら、耐え難い仕打ちだったに違いない。

本書の後半、岩屋城、戸次川、丹生島の戦いのあたりはおもしろかった。が、戸次道雪や高橋紹運が死に、家臣から裏切られ、没落につながっていく悲愴さがにじんでいる。

続きを読む>>

2009-10-06(Tue)
 

大友宗麟:読書中

八月後半から九月末にかけて、滅茶苦茶忙しくて、本を読む暇がなかった。
「大友宗麟」(吉川弘文館)もいつまで読んでる? って感じ。

宗麟は自分の名前や花押をコロコロ変えたんだけど、そのことを著者は
「その用いた花押が多様だったことともあわせて、彼の多趣味を示すと共に、内面心理の動揺の著しかったことを物語るものであろう」(p237)
と書いている。

宗麟が入道する前の名は義鎮で、幼名は塩法師丸。元服して五郎。
ま、この流れはまとも。

しかし、
宗麟は入道してからも、多くの別号を有している。(p236)
宗滴、休庵、玄斎、三玄斎、玄非斎……
受洗してからは、フランシスコ。
それに漢字をあてて
普蘭師司怙
とも名乗っている。






どこのヤンキーですか…
(失礼)
2009-10-05(Mon)
 
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